In Memory of Keith Elam Better Known as Guru by sassyism
4月19日は、世界中のHip Hopファンにとって本当に悲しい日となった。
Guruのことを”友人”と呼ぶにはおこがましいが、取材を通して知り合った2006年から、少なくとも年に一度は、東京またはNYCで時間を共有させて貰っていた”私”の視点でGuruとの思い出を振り返りたいと思う。
DJ Premierが生み出すビートとGuruのモノトーンヴォイス、スノッブで洗練されていて、でも男臭さに溢れるGang Starrに魅せられていた一人として、初めてGuruに会った2006年のインタビューはいろんな意味で興味深いものであった。
直前にレーベル側から”Gang Starr”関連の質問はなるべく避けて欲しいと言われ、能天気に「Gang Starrの復活話聞けるかも」なんて思っていた私は、一気に現実に引き戻されたことを思い出す。インタビューには、Guruのビジネスパートナー/プロデューサーのSolarも同席し、まずは無難な質問からスタートしたが、『Version 7.0 The Street Scriptures』やGang Starr後の動向を語るGuruの言葉の節々に感じるのは「Gang StarrとしてのチャプターはGuruの中では終っているんだな」ということだった。
雰囲気を見て”Gang Starr”の新作の可能性についてそれとなく聞いたとき「Gang Starrとしての栄光は本当に誇りに思っているけど、それは過去の話。もう次のステージに進んでいるんだよ」と、静かに答えるGuruに、私も含め多くの人間が求めていた"Gang Starr"としてのGuruの存在が、”1アーティスト”として次のステップへ進んでいるGuruの足かせになっているように感じ、どこか複雑な気持ちになった記憶がある。
私は日本から連絡を取る時はいつも、Guru、Solar両者に同じメールを送りスケジュール調整をお願いしていた。取材時の雰囲気からも二人で動いている印象を受けていたし、その方がいろんな意味で誤解を避けることができ、手間も省け、そして、何より礼儀だと思っていたからだ。しかし、ごく普通だと思っていたその行為にGuruは感心してくれたようで、初めて仕事抜きで食事した席で「オレにもSolarにも同じメールを送って来たところがシェイディーじゃなくて良かった」と言われ、予想外のことを褒められてビックリしたことを覚えている。Guru自身も「窓口はSolarだけど、話し合って決めてるから彼のメールはオレからのメールだと思って」と言っていたし、メールの返信は常にSolar名義のアカウントからだったが、約束の確認メール(text message)やクリスマスやニューイヤーの電話は覚えている限りGuruの携帯からだったことから、この二人がいかに同等でオープンな間柄を保とうとしていたかを実感することができる。
その年の秋、グラフィティライターの取材でNYCを訪れたとき、到着日以外フリーの時間を取り難そうだった私のスケジュールに合せてくれた二人は、迎えに来てくれたかと思うと、隠れ家のようなスタジオに連れて行ってくれたことがあった。パリとスイスのラジオ番組のドロップを録り、オランダ(だったと思う)から送られて来たメールでの質問(=メールインタビュー)に答える二人。ここでも”Gang Starr”として活動に関する質問は浴びせられ、Guruがの答えがちょっとした”ルーティーン”に聞こえるのに対し、Solarの「どうして”Guru”を”Guru”として評価しないんだ」とヒートアップしている様子に「レジェンドの新たなパートナーは大変なんだろうなー」と、思ったことを記憶している。
スタジオの後は、Guruの自宅に招いてくれ、テイクアウトした食事やマンチーズを片手に『MASH』のお気に入りのエピソードを鑑賞。風刺や独特のブラック・ジョークに私が飽き始めると、音楽、本、時事問題と、いろいろなトピックをチョイスしては意見をシェアしてくれた。Guruはどのジャンルにおいても自身の意見をしっかり持っていて、それを伝えるのがとても上手い人だった。選ぶ言葉や表現には自信や信念を垣間みることができ、例え意見が異なったとしてもAgree to Disagree(同意しないことに同意する)してくれる距離感がたまらなく心地良かった。
後日、帰国の前日に二人がまた夕飯に連れ出してくれることに。取材したグラフィティライターの中にGuruの昔からの友人がいたことでも盛り上がり、自身も缶を握っていた頃の昔話を披露してくれた。帰り際にバッタリ会って紹介したディレクターや同行していた日本人グラフィティライターからのシャウトのリクエストにも喜んで応え、二人揃って番組に華を添えてくれたことも今となっては良い思い出である。
また、この時に車中でOmarをフィーチャーした録りたての「The Jazz Style」(翌2007年にリリースされた『Jazzmatazz Vol.4』に収録)を聴かせてくれ、二人して満足気に頷く姿に、私自身、考えることは多々あったにしろ、二人が信頼し合っているという印象は否定できない。華やかでアダルトな雰囲気を解り易く打ち出したトラックに、Omarのセクシーなフック、Guruが随所にチクリと毒を吐きつつライムするこの曲は、その思い出も合い重なり、晩年のGuru作品の中の私のお気に入りである。
2007年にNYCで再会したとき、二人の行き着けのイタリアンレストラン近くの駐車場に車を停め、お店までの道のりを歩いていると、今まで目にしたことのない剣幕でGuruが電話口で怒鳴っていた。私はてっきり男性アーティスト恒例の(笑)「”Baby Mommaドラマ”かな?」と思い、電話が終った後に「大丈夫? Baby Mommaドラマは世界共通だね」と、冗談ぽく声をかけると「オレのex-DJの周りが今だに嫌がらせの電話してくるんだ」との答え。「ex-DJってアノex-DJ?」と聞くと「そう、あのex-DJ」と答えるGuru。
初めて取材させて頂いたとき、既出のように”Gang Starrの復活は可能性薄”だと感じていた私は、Solarの手前というわけでもないが、そのトピックをチョイスすることにあまり積極的ではなかった。”腫れ物に触る”というのは言い過ぎな気もするが、その種の質問に答え飽きている感が否めなかったからだ。しかし、そのただならぬ電話の雰囲気に話を聞いてみたくなった。そこで、GuruとSolarの出会いから聞き直してみることにした。
「Solarとは、最後のGang Starrのアルバムを作り終える直前くらいに知り合った。オレは次のステージを模索するあまり、酒浸りの日々だった。すり寄って来る人間はみんなオレに”何か”を求め、信用することができなかったけど、Solarはオレにフックアップを頼むわけでもなく、ひたすら一緒に遊んでくれたんだ。"友達"として信頼関係を築いた後、最終的には「他人に出来るのにオレに出来ないことはない!」って言って背中を押してくれたんだ。その後は酒も止めて、Solarをパートナーとして7 Grandを立ち上げ、新たなチャプターをスタートさせたんだよ」
こう語るGuruにとって、Solarの存在が”ビジネスパートナー”である以前に”良き友人”であったことは容易に想像出来る。肝心のDJ Premierとの関係だが、何年もコンタクトを取っていない状態で、そのため、Guru自身もDJ Premierの周りの人間がいまだにこういう電話をかけてくることをDJ Premier本人が知っているかどうかは謎だと言っていた。二人の間に何があったかを聞ける雰囲気ではなく、聞いたところでベラベラと話すようなアマチュアでもないし、私はただただ「人気グループの解散や活動停止には、やっぱりメンバーしか知り得ないことがあるもんだな」と、思うばかりだった。
2008年に東京で再会したときは、新宿から恵比寿に向かうタクシーの中でSolarと私の意見がぶつかり、ちょっとした口論になったこともあった。あるインディーズレーベルに対する私とSolarの考えが異なったことに端を発し、Solarが「どうしてみんなはいつまでもGuruをGang StarrのGuruでいさせたがるんだ」といった内容の、過去に何度か耳にしたことのある不満を漏らし始めた。同じような話をもはや聞き飽きていた私は「それは仕方ない。だってGang Starrが好きな人が多いんだもの。Gang Starrと同じようにJazzmatazzシリーズのファンだっている。7 GrandのGuruになるにはもう少し時間がかかる」と答えると、Solarはそんなこと重々承知だ、といった表情。いつもだったらそのあたりで引く私も、なぜかこのときはヒートアップ。「DJ Premierと同列で評価されたいなら、Guruと良い作品を作り続けることしか策はないでしょ? 評価は他人がすることだけど、そこばっかり意識してたら自分に自信の無い人みたいだ。それに今のGuruのパートナーはあなたなんだから、それで良いじゃん!」と、まくしたてると、それまでだんまりを決め込んでいたGuruが「That’s right!(=その通り!)」とニヤっと笑い、自然とその場が収まったことをよく覚えている。
最後の来日となってしまった2009年は、Mega-GくんがGuruにインタビューをする際の通訳としてのオファーを頂き、”仕事”;という形で二人に再会することができた。通訳という立場上、私が聞きたい質問を投げることは無かったが、初めてインタビューさせて頂いたときと比較すると、Solarが口を開く回数は格段に減っていて、とても落ち着いている印象を受けた。同時に、2008年に会ったときよりもさらに痩せているGuruの健康が気になった私は「ベジタリアンなのは解るけど、肉食べないと”艶”が出ないわよ、Guru!」なんて言ったことを思い出す。Guruは笑って「You’re still crazy!」って言ってくれたなぁ。。。今思うと、それが最後に交わした(メール以外での)会話である。
Guruの悲報を聞いてから思い出すのは、上記のようなたわいもない会話ばかり。取材を介して知り合い、プライベートな部分を多少ながら覗くことのできた私は、GuruとSolarの常に行動を共にしている様や、家族同様、またはそれ以上に仲の良い様子に、ある種の疑問を抱くこともあった。
しかし、Guruからの最後の言葉として発表された手紙を読み、疑問に思っていたことがいくつか解消されたような気がした。
受け手によっては”出しゃばっている”とも取られかねないSolarの言動や、過度にさえも感じていたプロテクティブな態度、Guruよりも半歩前に出て甲斐甲斐しく世話を焼いていた姿がGuruの闘病生活にリンクしていたのかもしれないと思うと、その不自然さの全てに合点がいくのだ。そのGuruの最後の手紙の内容に、世界中のファンが手紙自体を疑問視し、もっともらしいことを言っている声が多く見られるが、どの意見も憶測の域を出ることはなく、私個人としてはとてもナンセンスに思えてしまう。また、『Version 7.0』がリリースされた頃のXXL誌やその他Hip Hop誌のインタビューで、Solarと設立した7 Grandの展望や、”Gang Starr”の(当時の)現状をGuru自ら明言しているにも関わらず、その部分をフォーカスして議論の材料にしている人間が見当たらないことをとても残念に思う。
私が悲しいのはGuruの紡ぐ言葉をもう聞くことができなくなってしまったことであり、手紙の真偽を問うたところでGuruが生き返るわけでもなく、また、私の中の”アーティスト”としてのGuruの評価が揺るぐこともない。
GuruとDJ Premierの関係同様に、手紙の真偽、そして真意も書いた本人や周りのごく少数の人間にしかわからないこと。真相がどうであれ、人の口に蓋をすることが不可能なように、個々が持っているその人に対するイメージや考えをコントロールすることは難しい。だからこそ私は、現時点ではこの手紙の内容を自分なりに解釈したいと思う。DJ Premierを”ex-DJ”と記しているのは、Gang Starrファンとしては淋しい気持ちにかられるが、視点を変えることで、DJ Premier云々ではなく、常に傍らで闘病生活を支え続けたパートナー(=Solar)に対する最後の”忠誠”や”優しさ”としても捉えることができると思っているし、少しの時間ではあったが仕事の垣根を超えてお付き合いさせて頂いたGuruは本当に穏やかで優しい人だったからこそ、そうであって欲しいと願っている。
今回、この寄稿を引き受けさせて頂いたのは、”私”が知っている晩年のGuruと、多くの人が思い描いているGuruの姿にギャップを感じ、妙な違和感を覚えているからである。もちろん、私の思い出話を披露したところで、個々の胸の内は大して変わらないだろう。でも、この記事によって、少しでもクダラナイ論争が減り、純粋な気持ちでGuruのHip Hop Lifeを祝う人間が増えてくれることを願いたい。
同時に”アーティスト”や”作品”を評価する際に、今一度、何らかのバイアスが掛かっていないかを自問するきっかけとして自戒の意も込めて書き記し、当時、私が安易に話してしまった感想を、まるで自分の経験談のように確信付けて話しているデリカシーに欠ける人間に対する”今”の私のステイトメントとしたいと思う。
Guru, may your soul rest in peace.
You were beautiful.
Love always,
sassyism